スティーブ・ジョブズ 本

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Lisa(リサ)

1979年、
スティーブ・ジョブズ氏は、ゼロックス社パロアルト研究所で驚くべきものを目にする。

それが現在はお馴染みのアイコンや、マウスといった
パソコンを格段に使いやすくするツール。

だが聞けば、その企業では製品化する予定はないという。

スティーブ・ウォズニアック
「ジョブズはこの便利な技術を、普通の人でも使いたいと考えました」

そこでスティーブ・ジョブズ氏はアイコンやマウスを装備した、新たなパソコンの開発に入る。

その名は、

「Lisa(リサ)」

まるで女性の名前だ。


この頃すでにスティーブ・ジョブズ氏は世間から、
コンピューター業界の革命児ともてはやされ、有名人になっていた。

しかし社内では、
スティーブ・ジョブズ氏への不満がくすぶり始めていた。

短気で完璧主義者のスティーブ・ジョブズ氏は、
たとえわずかなミスでも罵倒した。

親友ウォズニアックとも次第に疎遠となり、
スティーブ・ジョブズ氏は裸の王様となっていった…。


そして1980年9月、
ついに「Lisa(リサ)プロジェクト」から外されたスティーブ・ジョブズ氏は、
会長という肩書きだけの地位に押し込められてしまう。



だが、無論それでおとなしくなるスティーブ・ジョブズ氏ではなかった…。

ペプシコーラのジョン・スカリー

Lisaチームに対抗すべく、
スティーブ・ジョブズ氏は、社内にお手製の海賊旗を立て、
新たなチームで開発を始めた。

スティーブ・ジョブズ氏は新チームのスタッフたちに、
とんでもない激務を課した。

「週90時間、喜んで働こう」

こんな標語を掲げ、常に厳しい注文を出し続け人の意見など聞く耳を持たない。

自分の理想とするパソコンを完成させるべく、わき目もふらずに突進していく…。

しかし、社外でもスティーブ・ジョブズ氏に逆風が吹き始める。

1983年、タイム誌に、
認知していない娘の存在を暴かれてしまった。

同じ年、1983年に発売されたLisaは、
1万ドル(約232万円 ※当時のレートで換算)という高価格ということもあり、大不評。

しかも、1981年にパソコンを販売し始めた
大手企業IBMに、販売台数を追いぬかれてしまった。

そこでスティーブ・ジョブズ氏は、起死回生の手を打つ。

アップル社に経営のプロを招くことを考えたのだ。

そのプロこそ、1980年代、
ペプシコーラを売り上げトップに押し上げ、
当時、事業担当社長だったジョン・スカリー

スティーブ・ジョブズ氏は、実に鮮やかな言葉で、
ジョン・スカリーを口説いた。

ジョン・スカリー
「私がアップルへ行く気はないと言うと、彼はこう言ったんです。

『一生砂糖水を売り続けるつもりなのか、それとも世界を変えるチャンスを手にしてみる気はないか』

とね」

この一言に揺さぶられたジョン・スカリーは、
アップルの社長に就任する。

マッキントッシュ

そして1984年、
スティーブ・ジョブズ氏は、IBM追撃に向け、
満を持して、自分のチームで作ったパソコンを発表する。

それが今なお根強いファンを持つ

マッキントッシュ


プロモーションにも力が入れられ、発表会では、

「ハロー マキントッシュです。やっとカバンから出てこられました」

といった音声機能を使ったパフォーマンスも行われた。

作家 リーンダー・カーニー
「マッキントッシュはCMも斬新でした」

監督は、ブレードランナーリドリー・スコット



IBMをイメージした独裁者に、
若い女性がハンマーを投げつけるというかなり挑発的なもの。

当初マッキントッシュは爆発的に売れたのだが、
年末には売上が急激に落ちる。

その原因のひとつが、動作の重さ。

スティーブ・ジョブズ氏が追求した理想に、
コンピューターがついてこれなかったのだ…。

マッキントッシュという頼みの綱が切れ、
スティーブ・ジョブズ氏は社内での発言力を失い孤立していく。

あれだけのラブコールを送った
ジョン・スカリーとの仲も険悪になった。

1985年9月、ついにスティーブ・ジョブズ氏は、
追われるようにアップル社を去る…。

所有していた1億ドル(約201億円 ※当時のレートで換算)を超える
アップル社の株、650万株は1株を残して売却。

スティーブ・ジョブズ氏がまだ、30歳の時であった。

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